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妻木城の沿革
妻木城址の会について
妻木公民館郷土資料室

土岐市妻木町1370-1
TEL:0572-57-4564
FAX:0572-57-4590
館内に併設されている郷土資料室には妻木城址がある城山の模型をはじめ妻木城主が身に付けた鎧甲冑などが展示してあり、散策スタート前にここで予備知識を仕込むのにピッタリ。
会報 乙姫城
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妻木城の別名を「乙姫城」といいます。いつのころからそう言われるようになったかは定かではありませんが、城山の中腹に「姫滝」があり、その名を連想させます。
投稿者 : masa 投稿日時: 2014-06-03 18:42:22 (2646 ヒット)

第32号(平成30年8月15日発行)

第31号(平成29年9月15日発行)

第30号(平成28年11月15日発行)

第29号(平成27年11月10日発行)

第28号(平成26年10月8日発行)

第27号(平成25年9月25日発行)

第26号(平成24年8月20日発行)

第25号(平成23年9月15日発行)

第24号(平成22年7月15日発行)

第23号(平成21年9月15日発行)

第22号(平成20年8月15日発行)

第21号(平成19年5月15日発行)

第20号(平成18年5月15日発行)

第19号(平成17年5月15日発行)

第18号(平成16年5月15日発行)

第17号(平成15年9月25日発行)

第16号(平成15年6月25日発行)

第15号(平成14年8月30日発行)

第14号(平成12年10月25日発行)

第13号(平成12年9月1日発行)

第12号(平成12年4月15日発行)

第11号(平成11年10月25日発行)

第10号(平成11年9月1日発行)

第9号(平成11年3月31日発行)

第8号(平成10年10月20日発行)

第7号(平成10年9月25日発行)

第6号(平成10年3月25日発行)

第5号(平成9年10月20日発行)

第4号(平成9年6月1日発行)

第3号(平成8年10月15日発行)

第2号(平成8年6月1日発行)

第1号(平成8年2月18日発行)


投稿者 : masa 投稿日時: 2014-06-03 18:38:49 (1681 ヒット)

妻木城址の会沿革


投稿者 : masa 投稿日時: 2014-06-03 17:59:49 (2043 ヒット)

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに、妻木雅楽助家頼(?忠)は父伝入(貞徳)とともに家康に味方し、交代寄合(参勤交代をする旗本)として、土岐郡内7500石の領主になりました。その後大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)によって豊臣氏は滅亡し、250年間の天下太平の江戸時代がはじまりました。妻木でも新しい町づくりに着手し、妻木陣屋(妻木城)跡や崇禅寺、八幡神社をはじめとして、窯跡や町並みなどの史跡や流鏑馬神事など、今の私たちが目にする妻木の風景がこの時代に作られたといっても過言ではありません。


初代 妻木伝入(貞徳・伝兵衛) 
大永6年(1526)-元和6年(1620) 95歳
 織田信長の馬廻り役を勤めたといわれます。天正10年(1582)本能寺の変で、信長が明智光秀によって討たれると、家督を息子の雅楽助に譲り、妻木村に隠居し剃髪して伝入を名乗りました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成)に味方する犬山城主石川備前守の元に末子がいたことから西軍に誘われたがこれを拒否し、東軍(徳川家康)に味方しました。家頼は妻木を離れることが多く、代わって伝入が在地を治めました。
元和6年8月9日95歳で死去し、崇禅寺に長寿院を創建し菩提を弔いました。



二代 妻木雅楽助家頼(頼忠・長門守
永禄8年(1565)-元和9年(1623) 59歳
 天正10年父伝入の隠居により家督を相続します。関ヶ原の戦いでは、父とともに東濃地方唯一の東軍として、西軍岩村城主田丸氏と各地で戦いこれを破りました。これにより土岐郡の旧領を安堵され、交代寄合格の旗本として大名に準ずる待遇を受けました。彦根城や加納城(岐阜市)の築城だは普請奉行を務め、元和元年(1615)の大坂夏の陣に従軍し戦功あげました。元和9年二代将軍徳川秀忠に従って上洛し、従五位下長門守に叙任しますが、その時病にかかり10月2日京都にて死去しました。崇禅寺に瑞松院を創建し菩提を弔いました。父伝入の死からわずか3年のことでした。



三代 妻木権左衛門頼利
天正13年(1585)-承応2(1653) 69歳
 慶長5年、16歳の時人質となって江戸に行き、翌年4月に妻木に帰りました。元和9年父の死去により家督を継ぎました。寛永10年(1633)に木曽三川の普請奉行を、寛永13年(1636)には多賀大社(滋賀県)の造営奉行を勤めました。
承応2年10月1日病死し、江戸の正覚院に葬られました。また崇禅寺には墓碑が建立されました。



四代 妻木藤右衛門頼次
元和6年(1620)-万治元年(1658) 39歳
 承応2年12月22日に家督を継ぎました。父頼利の存命中におこった兄弟不和(妻木騒動)により、次男兵九郎幸広(後の上郷妻木氏)に大富村500石を分け与え、頼次は7000石を知行しました。万治元年6月18日妻木にて病死し、崇禅寺に葬られました。一説に参勤交代の途中箱根の関で急死したといわれますが、根拠となる史料は存在しません。跡継ぎとなる男子は無く妻木本家は頼次で断絶します。その後妻木村上郷500石は弟幸広が大富から移り、妻木村下郷800石は一族の妻木彦右衛門頼熊(下郷妻木氏)に加増され明治維新まで続きました。


投稿者 : masa 投稿日時: 2014-06-03 17:54:01 (2179 ヒット)



曲輪1
山頂部分にあたり本丸と呼ばれています。廃城後の江戸時代中頃に八幡神社が建立されました。発掘調査によって建物の礎石が確認されています。


曲輪2
曲輪?の北側に一段低く造成されたいます。二の丸と呼ばれてきました。発掘調査によって建物の礎石が確認されています。北側に虎口があり門跡が確認されています。


曲輪3
妻木町から土岐市北部、多治見市街地を一望できる見晴らしのよい場所です。ここからも建物の礎石が確認されています。
これらの主要な3曲輪の南側・西側にも曲輪が広がっているが、3つの曲輪を取り巻くように横堀や堀切で切り離され、防御しやすいコンパクトな城になっています。これは、関ヶ原の合戦当時、徳川家康の命を受けて行ったものだと考えられています。遠くには白山、御嶽山、中央アルプス、恵那山など、山々を見ることができます。三の丸と呼ばれてきました。


升形虎口
曲輪1の入り口あたりでは発掘調査時に、門跡が確認されました。(虎口とは、城郭や陣営などの最も要所に当たる出入り口のこと)

発掘調査時

現状

物見杉
明治3年(1870年)の大風によって幹が裂け、その後立ち枯れた大杉です。根回りが3.4mある巨木で「物見杉」と呼ばれてきました。戦後下駄(げた)を作るために切り取られた跡が今も残っています。


堀切とくさび跡のある花崗岩
堀の工事は、花崗岩の巨石によって困難を極めました。太鼓櫓の南側にはくさび跡が残る巨石が残されています。岩の除去を断念したものと思われます。太鼓櫓の西側は深い横堀の跡が良好な状態で残されています。


花崗岩の巨石群と節理
関ヶ原の戦いの時、西軍(岩村城主田丸氏)の攻撃に備えて、城の中心部の南側を取り巻くように堀が作られたと考えられています。この工事により花崗岩の大岩があちこちに露出しています。あたかも人が積んだように見えますが、これは「節理」という現象です。マグマが地下で冷えて花崗岩になる時に、全体が収縮して等間隔の割れ目(節理)が多数できます。地表に現れた時、風化浸食によって四角形のかたまりに分かれ、あたかも人が積んだように見えます。高さ6m以上の場所もあります。




伝旗立岩
曲輪1(本丸)の南西隅にある高さ5m以上ある巨岩です。この岩を取り除くために、くさびを打ち込んだ跡が残っています。旗立て岩の伝承もあります。

井戸跡
妻木城内に2か所あった井戸の一つです。土塁に囲まれた内側にあります。ここを水源とする沢は南側へ登山道に沿って流れています。水量は多くありませんが年中絶えることはありません。


投稿者 : masa 投稿日時: 2014-06-03 17:51:50 (1677 ヒット)

平成26年度 妻木城址の会 事業計画

1、城山美化整備
(1)史跡指定地及び登山道の整備と草刈作業 
    本丸?御殿跡(城山八幡神社祭礼日)4月27日(日)実施済み
(2)登山道整備と御殿跡草刈り作業 (秋頃実施予定)

2、妻木公民館郷土資料室に関する事業
(1)特別展「崇禅寺宝物展」の実施
         講演会・展示説明会の実施
(2)特別展「懐かしの妻木中学校・下石中学校」の実施
        講演会・展示説明会の実施 
(3)資料調査・出版事業の実施
(4)妻木を知る講座 随時
(5)展示室の改善と充実
    
3、写真資料の事業
(1) 毎月第4週木曜日に定例会を実施。 (写真撮影、勉強会)
(2)土地区画整理予定地の景観撮影を継続し、記録保存する。
    ・工事着工状況など変り行く景観を撮影する。
(3)妻木の史跡撮影会を継続して実施する。
   ・今年度は、第2回目として[東部地区]の史跡を記録する
(4)『妻木を撮る』写真展、公民館文化祭にてクラブ発表を実施する。
(5)会員の撮影技術向上をめざす。
   ・例会にて、「撮影技術ステップアップ講座」を実施する。
・撮影写真発表「私の一枚」を継続する。
(6)各町内の祭事・行事を撮る。
   ・例会にて今年度の実施日時を確認しながら記録保存を図る。
(7)「妻木の昔写真」を集める。
   ・入手写真をデータ加工し、記録保存する。

4、手作り鎧つくりと火縄銃実演について
(1)妻木小学校付属幼稚園 親子手作りよろい教室
  6月7日 5歳児  47名  (作成指導))
    10月12日(日) 火縄銃実演及びよろい武者行列に参加
(2)火縄銃の実演及びよろい行列10月12日(日) 流鏑馬にあわせて実施
   
5、普及・広報活動
(1)御殿跡・浦山第二砂防ダム周辺の散策路整備 国土交通省に協力
(2)研修旅行  6/20(金) 
          長野県駒ヶ根市駒ヶ根高原砂防フィールド他   
(3)案内看板の設置
(4)機関紙の発行/ホームページの充実
(5)『散策マップ』『妻木城ガイドブック』等の編集 

6、その他
(1)来訪、見学者等随時案内  


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八幡神社

ホームページはコチラ
八幡神社の創建は、元応元年(1319年)に美濃国守護土岐頼貞によるとも、頼貞の孫土岐明智頼重が妻木城築城後に建立したとも云われます。妻木城主の氏神として手厚く保護されてきました。流鏑馬が行われる広い参道や68段の石段の上に建つ社殿は、妻木城主の栄華が偲ばれます。絵馬など岐阜県、土岐市指定の文化財を多数所蔵しています。
崇禅寺

崇禅寺は土岐明智氏の初代頼重が文和三年(1354年)に夢窓国師を勧請開山、果山禅師を開山として創建しました。妻木城主代々の位牌や墓所があります。
流鏑馬神事

元和9年(1623年)、妻木城主妻木家頼が武運を祈り馬を1頭奉納したことが始まりといわれています。小学校4年生から6年生の6名が馬の乗り手を行い、陣笠羽織姿で3回、古代衣装で3回の計6回行われ、参道の坂道(約130m)を駆け上がります。1回の流鏑馬を終えて元の位置に戻る途中で、馬の乗り手から縁起物の扇子や鞭が参拝者へ向けて投げられます。
火縄銃の実演

妻木城主、妻木家頼が関ヶ原の合戦際して西軍岩村城主田丸氏を撃破した古事にちなんで、10月の第二日曜日(流鏑馬神事の日)妻木小学校校庭にて行われます。
妻木町 歴史散策
「東濃ショッパー」というフリーペーパーで連載しておりました「東濃歴史散策」を編集・改編してアップしていきます。古い記事もあるので、今現在と状況が違うこともあります。ご了承下さい。

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